昭和40年04月24日 朝の御理解
信心をさせて頂く者は、何事も信心になれと。何事にも信心にならして頂くという事は、神様を中心御教えを中心と。そういう生き方と言うか、そういう信心が有り難いんですけれども。そんなら教えを中心とか、神様を中心とかと言う事は、どういう事にならなければ、お道ぶりと言うかね、お道の御信心ぶりというものにならないかと言うと、私は一切が御結界中心じゃなかならければいけない、という事だと思う。
どんなに良い信心がなされておりましてもね、ご結界を中心にしたところの信心でなかならければですね、例えば、その家の中ででも同じです。盛り上がるというものが生まれてまいりません。信心のありがた、ここが信心の有り難いとじゃんね、これがお道の信心の有り難い所だというようなものが生まれてきましせんですね。お広前の上の事においてはなおさらのこと、めいめいがてんでんバラバラにです。
例えばあぁその、いわゆる神様が中心だと言うて、まあ成程教えを中心にしての生き方でありましてもその事が特にです、ご結界を中心にしたものでなければ、てんでんバラバラになって、お広前全体に一つの盛り上がりにならないという事ですね。例えば私共の三番目の娘が今年から中学なんです。なんかあの学校でクラブ活動があるんですね。それで、色々な自分の趣味とか好みとかというのに合わせて、まあその色々入んならんとです。ね。それを子供がね、自分で決めてくるようになったら駄目です。
親にも相談しないで。いや親に相談しないじゃないけどそんなら、あのご結界で一つお取次ぎでも頂いてから、そしてからの事になさいというようなですね、行き方になって参ります時にです、家族中の一つの盛り上がりと言うものが生まれて来るもんですね。それを例えば親が、親が相談を受けても、なら親そのものがんなら椛目にお参りさせて頂いてお伺いしてから、ご神意頂いてからお願いしてからの事にしなさい。
一事が万事にそう言う様な有り方、そこに家族中の者の一つの、なんちゅうか、信心の中心と言うか、盛り上がるといったようなものが生まれてまいりますよ。私はあの椛目全体の事の盛り上がると言う事について、特に最近は御造営、御造営と言うて、御造営を焦点にして、もう日々のご理解の中に、御造営の話が出らないことがない。ですから信心とはですね、現在を問題その現在問題としておる、その問題を通して信心を分からして頂く事だと思うんです。ね。
ですから、それが家庭の中でもです、御造営なら御造営と言う事が焦点においての、例えば先日も、子供さんが、あるその買い物を母親に相談してる。ところがその母親が、言うておられることです、とにかく御造営が済むまで、辛抱の出来ることなら辛抱しなさい。というようなその生き方なんです。子供も信心があるわけですから、ほんに、今はそうさして頂こう。ということにそのなってるんですね。
私は皆がこうして確かに御造営、御造営とこう言っておりますけれども、そのまだ盛り上がり一部的な中にその、それがありますけれども、その椛目全体のっていうか盛り上がりという事になっていない気がいたします。例えば花見にまいりますね、んで花の下で、一献酌み交わしながら段々飲むほどに、酔うほどにでその場が、いわゆるお酒の雰囲気になってまいります。お酒を頂かない人でも段々浮かれて参ります。
そうひょうたんばかりが置物かと言う様なその、手拍子合わしての歌の一つも皆で歌おう。中には酔うておる人もおりゃ、酔わん人もあるけれども、酔うてない酒を頂ききらない人ににもです、その雰囲気でいつの間にかその、花見の雰囲気と言うものが盛り上がって来る様にです、その盛り上がって来ると言う事の為に、私はその事を一生懸命に思うておられる、念じておられる、というもののその心が一つに集まらなければいけないと思う。めいめいバラバラでは、ここでそのなっておる。
それがだから一つの盛り上がりと言うことになっていく為にです、私は信心の共励という事はが、必要になって来ると思うです。家族でももうそれはとにかく御造営の済むまで、と言ったようにです、例えばこれが一つの信心の寄り合いということ、稽古と言うことがです、なら今日は北野の共励会の人なら、共励会が御座います。その共励会の中でもおそらく、焦点がそこに決まるだろうと思うんです。
ですからんなら、田主丸地区の方達もです、久留米地区の方達もですねその事に焦点を置いて信心の稽古をしておられる方達がです、集まって言わばこう行く時にその例えば、北野地区なら北野地区でまだそう関心がない人たちまでもです、手拍子の一つぐらい打たなきゃならんと言った様な雰囲気がです、段々盛り上がって来るじゃなかろうかと。しかもそれが御取次ぎを頂いてご結界を中心にしてそれがなされていく時です。
私は、盛り上がりと、これも一つ、この盛り上がりと言うものがなかならければいけません。ね。例えば、大祭を仕えるのでもそうでしょうが、大祭、大祭と、その大祭、大祭と言う皆の思いがです、御取次ぎを中心にして、ご結界を中心にしてです、そして、いよいよあの祭典というその時に、今の思いがこう結集されて、思いが一つにされた時です、丁度、お祭りが、お祭りになっておると。
今度の、御造営という事にあたってでもです、もうめいめいがです、もうその一軒一軒ではです、ほんとにもうほんとに、お話でもするならです、まあ、これが、ああ、一つの何て言うでしょうか、その、言葉で当てはまらないでしょうか。けども、一つの美談的な話というものがです、いくらもあります。ね。そういう人達の、例えば、思いがです、そういう思いでない人達の、思いも交流し始めた時です、私は盛り上がりというものが出来て来るんだと思うんですね。
私はこの度の事には、こういうような信心でおかげを頂きたい。ただ、自分がですね、こうと、ああと、こうと言うたところで、駄目です。おかげを受けなければ。ね。その事の為には、例えば、ある人はです、それは、ちょっとあなたの、その、思い方は素晴らしいけれども、その思い方、素晴らしい思い方には、こういう信心に、が、必要じゃなかろうかと言ったような話し合い。
ここで私が、ここでお取次ぎさして頂きましてもです、そんなに皆さん一生懸命に思うておられるのですかと。と例えばほんとに思わせて頂く様な、どうぞいくらも御座います。だからその人だけは、その事にもう酔ったように、その事に焦点を置いて一生懸命なってるんです。ですからそれはどうなれ、酔ってない人たちの場合、一緒にこう集まった時です酔ってない人までも酔った様な気分が、雰囲気が生まれてくる。
ですからあぁ、これを人の前でです、その事をです、共励し合おうという、まだあぁその、意欲にも至っていないとするならば、まだ酔いたけりゃ、まだ、んなら足らんとです。自分が一生懸命にならして頂いた、これそうも一生懸命させなおかんといったようなその、言わば、ああその、ほんとの酔うてないわけです。ね。一杯機嫌になってまいりますと、普通では言えない事が平気で言えれるようにです、ね、
それを相手のほうにそれが、ああー、酔うた雰囲気と言うかね、あの人の一生懸命に触れただけでもこっちもジットしちゃおられんと言ったような雰囲気が生まれて来る時に、私は、一つの大きなおかげがですね、一人では、言わば、持ち上がらない石でも、大勢掛け声を揃えてというようなことになってくる。一人で持ち上がらない石でも、大勢が掛け声を揃えて、持ち上げれば、持ち上がるような道理だと言ったようなことにです、そういうことに、この、焦点を置いての信心がですねなさらなければいけない。
今日は北野の共励会です。ですから今日皆さんのその信心の共励もさることながら、共励の焦点を今、椛目の人達が何処に置くか。その例えばその事によってです、いわゆる酔いかけておる人酔っておる人、達が集うた時にです、そこに一つの例えば北野の共励会の、今日の共励会におかげいただいて良かったと言う様なです盛り上がり、あまり感心を持っていなかった人達でもです、感心を持ってその事に、酔うた雰囲気の中に浸らして頂いて、その一つも打たして頂く様な花見の雰囲気。
花見に行って楽しかったといったようなものがです生まれてくるんじゃなかろうかとこう思います。でも、そういうようなあれで、しっかり信心の共励を家庭に置きましても、ね、また、共励きかんに置きましても、椛目にあの、集まりましてもそれがなされていくようなお繰り合わせを頂きたい。為には、何処までも一つのことがです、子供の例えば、その、学校のクラブ活動と言ったようなことでもです、私はこういうような、その、あるクラブに入ったと。
というんではなくて、そこの事が神様にお願いをして御取次ぎを頂いて、親先生に定めて頂いたことによってそれがなされて行くと言う様なおかげを頂く時にです、家庭の中にもより神様を中心の生活が出来ておると言った様な事が言えるのじゃなかろうか。椛目全体の事においてもです、ね、それが一つの起動、物事が起動に乗るためにです、そこへ思いを皆集めなければ起動に乗った働きというものは出来ない。
そういう意味合いで一つ信心の共励です、家庭の上に又はまあお互いが、あぁ目指して頂いておるお互いの信心の交換、いわゆる、信心の共励場に置いてです、焦点がそこに置けれるようなおかげを頂いて、まあ、欲しいと。私は思うんです。せっかくのめいめいの思いがです、ご結界中心でなしに、それがいかに信心でなされておりましてもです、お道信心振りということにはなって来ない。お道の信心ぶりであるところのひれいにも、おかげにも、それはなってこない。
どうぞ、お道の信心ぶりになってまいりましてから、おかげを頂く時に、私は昨日、お話の中にも申しましたようにです、ね、自分だけが良い子になろうといったような事では駄目だと。皆がです、ね、神様から皆のおかげでと、神様から皆のおかげで○○さんあんたのおかげでと言ったようなものではなくてです、ね、皆のおかげでということにならしてもらい。皆が同じ思いで神様あなたのおかげでと言う様な事になって来る様なおかげになってこなければならんと思うですね。
おかげ頂きますように。